死と向き合うともっと自由に人生を楽しめる!その訳とは?

死と向き合うことによってあなたの死生観が変わり、生きることさえもがもっと充実した輝いたものになる。

年金を受け取る年齢になり、若い頃とは違った感覚が芽生えてきました。そのうちのひとつが死生観です。

死は遅かれ早かれ誰もが体験します。でも、ほとんどの人が、「なぜ私たちは死ぬのか?今は死にたくない。」と思っているはずです。元気でバリバリ仕事をしている人にとっては、「死とは遥か彼方のもの」「今の自分には関係ないこと」として捉えていることでしょう。

けれどそれはいつか、だれにでも必ず訪れるものです。これをどのように捉えれば死への思いが楽になるのか?そして、そのことが生きることにどう関係しているのか?

生きることの先に死があるということは、どう生きるかによってどう死ぬかということに他なりません。時には死というテーマに向き合うのも、今を真剣に生きることに繋がるのではないかと思います。

あのお釈迦様でさえ、悟りのきっかけは「病、老、死」だったというのですから、これはもう相当テーマが重い気もしますが、そこをあえて考えてみました。

ほとんどの人は「今は死にたくない」と考えます。なかには「今すぐ死にたい!」と思っている人がいるかもしれませんが、それでもほとんどの人は今は死にたくないはずですよね。でも、人は必ず死を迎えます。

その死と向き合うことで、あなたの人生をもっと充実したものに変えられるのです。それを今から一緒に考えてみましょう。

死んだらどうなる?

死後どうなるのかについては、生きている間に必ずだれもが疑問を持ちます。

こんな話を聞いたことがあります。

「死んだらどうなるのか?」という問いに対して世界中の人が考えている答は三つしかないそうです。

  1. また生まれ変わる
  2. 天国や地獄など別の所に行く
  3. すべて消えてしまう

さてあなたはどう考えますか?

私が信じているのは、死ぬと魂がこの世とは別次元に行ってそこで違った体験をする。そしてその人生を終えるとまた別の次元に行ってまた違う体験をする。それを延々と繰り返すというものです。ですから生まれ変わるとも、別の場所で生きるとも言えるかもしれません。

死にたくないという思い

人はなぜ死にたくないと思うのか?
死にたくないと思うのに、なぜ死ぬのか?
死という言葉の意味するものは何なのか?

自分の中にある死に対するイメージを考えてみると、

  • 悲しいこと
  • 寂しいこと
  • 嫌なこと
  • 辛いこと

これらを総合して忌み嫌うものとして、私たちの中に定着しているようです。

それらは決してポジティブなものではありません。むしろネガティブの塊のように死という一文字を捉えてしまいます。

ところで、アフリカだと記憶しているのですが、ある部族では死は非常にめでたいことで、人が死ぬと大笑いし祝宴を上げるそうです。おそらくそれは、この世で生きることは苦しい修行だから、死ぬことによって苦行から抜けられるといった思想からなのでしょう。

これは私たちが持っている死の概念である、縁起が悪いとか悲しいという捉え方とは180度違ったものですね。

彼らのように、「死とは、辛いこの世の修業を終えて天国に行くこと。」なのだからめでたいものとして捉えるのも、また一理あるかと思いました。その土地その時代にある集合意識が変わると、人々の概念に及ぼす影響が180度違ったものになるのですから、集合意識とはすごいものです。

なぜ死にたくないと思うのか?

もう少し、死にたくないという思いを掘り下げてみましょう。

なんといっても、「家族や友人と別れるのが辛い」というのがトップに来るでしょう。そう思うあなたは、今幸せな人生を送っているのですね。今の暮らしが幸せだから死ぬことによってこれがなくなるのが嫌だ。この世に未練があるのですよね。

あるいは、「苦しむのが怖い」のかもしれません。でもそれだけではなく、もっと大きな理由があるように思います。

死後の世界には恐ろしいことが待っているかもしれない。地獄に落ちるかもしれない。自分が全くなくなってしまうことが怖い。そんな恐怖感もあるのではないでしょうか。

人は変化することに恐怖を感じてしまいます。いつもの暮らしがずーっと続くものと思っているのです。でも、この世は必ず変化していきます。そして、死は必ずどんな人にもやってきます。どうせならもっと前向きに死をとらえてもいいのではないかと思います。

死を自分で理想的に創造できる!?

もし、「死」というものが自分の思い通りの形に創造できるとしたら、あなたはどんな死を創造するでしょう。突拍子もない質問だと思われるかもしれませんが、もしかしたらこれは可能ではないかと思っています。

私たち人間は、意識で現実を創造し続ける生き物です。なぜなら、自分の思い込みや集合意識が現実を創造しているからなのです。

そうだとしたら、死についても思い込みや固定観念にとらわれないで、自分の思い通りの死という形を創造できるのではないかと思います。

先日テレビでこんな話を聞きました。

「95歳のおばあさんが亡くなりました。でもその方は亡くなるその日までご飯の支度をしていました。」

「90歳を過ぎた夫婦が朝食のテーブルで同時に人生を終えていた。テーブルの上には炊き立てのご飯と梅干があった。」

いや~、見事な死の在り方だと感動しました。

現代社会では、老衰で死を迎える自然死がほんの数パーセントだと聞いたことがあります。自然界では生き物は生を全うして木が枯れるように自然に死んでいくのに、人間はなぜそれができないのでしょう。

自然界の死

自然界に生きる動物は死ぬとその姿を残さないと言われています。

子供の頃飼っていた猫が突然いなくなりました。すると祖母が「あの猫はもう年を取ったから、どこか死に場所を見つけに行ったのだよ。」と言いました。

昔は野良猫や野良犬がたくさんいたにもかかわらず、その死骸を目にすることはあまりありませんでした。この自然界にいるスズメやカラス、鳩、ネズミなど人間よりはるかに多いとされている生き物の死骸もほとんど目にすることがありません。

たまに車にはねられた動物の死骸に出くわすことはあります。それと、ペットとして飼われて獣医さんのお世話になったものは身体が残りますが、自然界の生き物は自然消滅すると言われています。

そこに何があるのでしょう。

私はそれが人間のカルマだと思うのです。感情や思い込みなど、私たちがこの世で生きて信じていること。これが形となって表れているのだと思います。そのカルマと、老いや病が大いに関係しているような気がします。

自然界に生きている鳩やカラスは、若さや老いが顕著ではなく一目で区別することが難しいということが物語っているように思います。

病、老、死

老いること、病気になること、死ぬことについては、かのブッダが最初に問いかけ、そこから出家の道に入ったというものですから、人間の最も基本的な苦しみなのでしょう。

なぜ病気になるのか?
なぜ老いるのか?
なぜ死ぬのか?

あなたはどう考えますか?

これが答えだということを書くことは私にはできません。私自身60歳を過ぎて老いというものが身近になってきました。そこで今思うのは、この年になってわかることがあるということです。おそらく10年先になると、またわかることがあるのでしょう。

病は健康のありがたさを知るためにあるのだと思います。健康な時には気付けなかったことに身体を病むことによって気付ける。これもまた意識の広がりの一つなのかもしれません。

話は変わりますが、ハイゼミでは禅講座というホームルームがあります。仏教を学んでいる方が講義をしてくださるのですが、ハイゼミの教えに多々通じるものがありました。

それは「この世は修行の場である。そこで自分を内観し、願望を実現する。」ということです。

この現世の修行の場で自分と向き合うことによって、自己実現を叶え続け、カルマが解消され、そして死を迎える。カルマを解消したときこそが理想の死を迎えるときになるのではないかと思います。

私は自分のカルマと向き合うことをハイゼミの課題で知りました。そして今、理想の死を創造するために、その学びの真っただ中にいて、現実を心地いいものに少しずつ変えていっています。

あなたが望む理想の死はどのようなものですか?

今を生きつつカルマを解消し続けたら、最終的には理想の死を迎えることができるはずです。そして今の生き方をもっと自由に充実したものにしていくことができるのです。

カルマの解消については、またいずれお伝えする機会があると思っています。


       
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