テレビで「戦争体験者が証言する」ドキュメント番組を観た。
80歳後半、90歳の方々が、重い口を開く。
戦争体験を語ることは、どれほど勇氣がいったことだろう。
口を開き語るまで一生涯かかった、その戦争体験とは、、、。
戦争がどういうものであったか、その証言から知ったことを、わたし自身の人生と重ねて考えてみた。
女性への性暴力、辛い体験を語るということ、戦争と宗教、人との違いを認めること、善悪、愛、日常と戦争。
戦争の話はもう古い、時代錯誤だ。そんな声が聞こえてきそうだ。
確かに、加速して進化しているハイテク社会、戦争はピンとこない。
だけれど、戦争に向かい兼ねない流れを、肌で感じたりもする。
平和な時代を生きているわたしたちと戦争は本当に関係ないのだろうか?
性暴力
強姦、輪姦、和姦、当たり前にあった。老人(の女性)子ども(の女の子)まで。日常、当たり前にあった。見て見ぬ振りしかできなかった。敵の兵士に女性を差し出せと言われ女性を選び差し出していた、とも。
番組の中では、性暴力という言葉を使っていた。その現実を浮き彫りにするために、あえてその言葉を使っているように感じた。
性暴力を受けた無力な女性を思った。そういう状況下で生きた男女全ての人々の心を思った。
強姦された後の女性は肉体的が傷つき、女性がみんなで手当てしたそうだ。ああそうなんだな、やぱっりな、と思った。そういうことをされたら傷つかないだろうか?と思っていたので。
男性は性欲を満たす。女性はその犠牲になる。傷つけられた女性と傷つけた男性。その対の構図が強烈に迫ってくる。戦争にはこれが付きもののように感じる。
人を殺すのをなんとも思わなくなる戦争。そうなってしまうのが戦争なのかもしれない。それは戦争の中で自分の身を守る術であるのかもしれない。
そんな極限の状況だからこそ、より露わに出てくる、男性の暴力性と性欲。
「戦うのは男。その男の性欲を満たすのは女」という男女の構図があるとしたら、そこに男女の問題を解決する強いメッセージがあるように思えてならない。
戦争という究極の体験の中で出てくるその構図から、この二元性の現実で起こる男女の問題を紐解く鍵を、見つけ出せないだろうか?
男性性と女性性の統合に適応できないだろうか?
とそんなことを考えた。これはわたしの宿題だ。鍵を探そう。
戦争体験を語りたくない大きな理由に、人を殺したこと、強姦したこと、が挙げられるんじゃないだろうか。正氣に戻ったとき、それがどれほどの苦しみに変わっただろう。
苦しんだであろうことは心が痛むけれど、苦しむことができたことは、ある意味幸いであったようにも思う。もうこんな戦争は嫌だ!こんな生き方したくない!と心から思えただろうから。
強姦に反応するわたしと反応しない娘
戦争中の性暴力が重く響いていたわたしは、30代の娘に、わたしと同じ反応が返ってくると思って言った。
「戦争って強姦とか当たり前だったんだってね」
「お母さん、そういう話、好きだよねー。執着があるよね」と言われ、びっくりした。
「だって、強姦とかされて嫌じゃない?」
お母さんはそういうことにすごく反応するよね、執着している、とまで言われた。
「あなたはなんとも思わないの?」
「そうなんだーって思うぐらい」
娘の反応には仰天した。同じ女性でも、反応がこんなにも違うことに驚いた。娘はそういうカルマがないのかもしれない。
そう、人によってカルマが違う。わたしは強く反応するけれど、娘は引っかからない。
カルマを自分の人生で解く問題集だとしたら、娘の問題集に性暴力は入っていないということだ。
確かにわたしは、強い反応をする。それは女性なら当たり前と思っていたけれど、みんな同じとは限らないことを知った。あらためて、自分のカルマかもしれないと思った。
肉体を犯されるだけではなく、精神を犯されるような、そんなことへの男性への怒り、恐怖、抵抗、不信感が、強くわたしにあるのかもしれない。
辛い体験を語る(書く)ということ
90歳に近い戦争体験者の男性は、毎夜うなされていたそうだ。
そんな夫に妻が、戦争体験を書いたらどうか、と進めたそうだ。書き始めたら、うなされなくなったと言う。そして1年後に亡くなったそうだ。
長い間うなされていた人生、それはどんな人生だったんだろう。
それをピタッと止めた、書くことのすごさを思い知った。
書くということは、自分の奥に押し込めていた見たくないものに光を照らし、自分を許し受け入れ認めてあげることかもしれない。
戦争とはいえ、人を殺したこと、強姦したこと、見て見ぬふりをしたこと、その自分をずっと許せず、その自分に触れることが恐かったかもしれない。
戦争は、その人が起こしたのではない。その人も、戦争に加担させられた被害者かもしれない。
しかし、である。この世の仕組みの視点から考えるに。
心の奥の奥では、戦争は自分が起こしたことを知っていたかもしれない。それゆえの苦しみで、うなされていたのかもしれない。
うなされるほど苦しむからこそ、二度と戦争は繰り返さないと魂に刻み、次に生まれてくるときは戦争を起こさない生き方をしようと決意するのではないか。
戦争体験を語り(書き)出した人は、戦争を起こした自分を変えようと、勇敢な一歩足を踏み出した人なのかもしれない。
戦争体験をずっと語らなかった男性が、語り出したら楽になったと、震えながら泣いていた。一人で胸にしまっておくことがどんなに辛く苦しいことか、だけれど苦しくても誰にも言えない心情が、想像できた。
話すこと(書くこと)で癒され、人生を変えることができたのだろう。
戦争と宗教
戦争の原因は宗教だ、と聞いた。
わたしは経済が原因だと思っていたので、驚いた。
最も心の平安を願う宗教が戦争の原因とは!
それはどういうことなんだろうと考えた。そして納得した。
宗教、、、心、、、、
そうだ、宗教は心を扱う。だから確かに、戦争の原因は宗教だ。
経済は心から発せられる。経済は二次的なものだ。お金持ちになりたいという心が先にある。
ああ、だから、戦争の原因は心(宗教)なんだ。
戦争の原因は宗教だ、ということが腑に落ちた。
そう言われて世界を見渡したら、イスラエル・パレスチナ問題を筆頭に、宗教間の争いは絶えないし終わらない。
宗教は、今現在も、わたしたちの生活と密接している。宗教と密接しているということは、戦争も隣合わせにある、と考えてもおかしくない。
違いを認め合う
心は自由だ。心で思うことは、一人一人違う。
だけれど、違いを認め合わなければ、争いになり兼ねない。
違いを認めないのが、実は、宗教なのかもしれない。
違いを認めることを禁止しているのが、実は、宗教なのではないか。
違いを認め合わなければ、その行き着く究極は、戦争ではないだろうか。
善悪
宗教は、善悪を説いている。
善悪は、いい人と悪い人を創る。
昔話の桃太郎の話。
桃太郎からみたら鬼が悪者。鬼からみたら桃太郎が悪者。桃太郎も鬼もどっちも正義を主張していると言うことだ。
どっちも正義だとどうなる?善悪は本当にあるのか?
宗教で定義された善悪に疑問を抱いたことはないだろうか。
自分の中に善悪はある。善悪で判断し自分の行動を決めている。その善悪は自分の善悪である。桃太郎の善悪であって、鬼の善悪ではない。
人に自分の善悪を押し付けると争いにならないか?対立し戦争が起きないか?
善悪はこういうものだと定義しなくても、わたしたちには、人類の共通の善悪を判断するセンサーが心の中にあるのではないか。すべてと調和する善悪のセンサー。
自然に生きていれば、その善悪のセンサーが発動する。その善悪は争いを起こさない。それが本来のわたしたちの生き方ではないだろうか。
善悪の本来の役割は、和を保つもの。善悪は、戦いの火種では決してない。
本来の善悪を取り戻す方法がある。
宗教は愛
宗教は、愛を説いている。宗教は愛。愛と戦争ということか。
なんという対比だ。だけれど、これが現実。
愛も善悪と同じだ。争う火種になる愛と、和を保つ愛がある。
和を保つ愛を発動させる方法がある。
日常と戦争
平和な国、日本。戦争は、遠いことのように思える。
しかし現実は、日々の生活の中に、戦争のエネルギーが見え隠れしていないだろうか。
遠くて近い、戦争。
戦争体験を証言するドキュメント番組を観て、戦争って今だからこそ意識すべきじゃないか、と思った。
戦争という言葉自体が似つかわしくない日常だけれど、ワンネス意識(統合意識)に向かっている今こそ、究極の分離である戦争のエネルギーと向き合うことが大事ではないかと思った。
実際、目の前に、現実味はないけれど、戦争エネルギーはぶら下がっている。まさに、遠くて近い戦争。
小さな小さな戦争と自覚のない戦争は、日常のいたるところで起こっているのではないか。
目の前ので、人と戦っていないか?
自分の心の中に、争う心はありはしないか?
自分の争う心が、現実の戦争を創っているとしたら?
大きな戦争であっても、小さな戦争であっても、戦争は戦争だ。
戦争は誰でも、嫌だと思うだろう。だけれど、そう思っている誰もが、心の中で戦っていないか?
心の中の戦争を、解除!
争いとは無縁の領域へ移行しよう。自分の意識で。
その方法がある。
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争う心が、だいぶ、なくなってきた。
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