人はみな思いやりをお互いに持ちつつ生きていたいと思っています。
でも、少し違った方向へ行ってしまうこともあるかもしれません。本当は自分らしく生きるためにも、思いやりを持っていたいのにできないのはなぜか?
常に持ちつつ毎日を送るとどう変化していくのでしょう?
変化は少しずつかもしれませんが、確実に自分らしく生きる方向へと変化していきます。
1.目の前の相手を自分のことのように考える
当たり前のことかもしれませんが、相手を自分のこととして考えながら行動するのは割と有効な手段と言えます。
でも、ときに自分のことだけを基準とすると相手との考えと思わぬ違いが生まれてしまうことも経験したことがあることでしょう。
自分の思いから出てくるものだけで判断すると間違えた反応があることも頭の片隅においておくのも大切なことですね。
そしてそれは、お互い様のことかもしれません。自分も相手からちょっと違うんだけど。。。って思うことをしてもらったとき、どんな反応を相手に返しているでしょう。
例えば、相手からはその違いに対して怒られてしまったときに感じたことを(申し訳なかった、でもそこまで言わなくても…)と思ったとします。ここで少し心にしこりのようなものが残ってしまうこともあるでしょう。
あなたが同じような場面で相手に対して怒りを感じたとしたら、違った反応を返せたとしたら、思いやりから始まり思わぬルートへ出てしまった「怒り」というものから解放へのチャンスとなります。
あなたの中の怒られてしまったときの自分を変えていくことで、そこにこだわり続けることがなくなるわけです。
自分と相手の反応の違いを観察していくと、自分がどう有りたいかがわかってくるかと思います。
2.思いやりから生まれる癒やし
相手のことを考えて行動するパターンとして、嬉しいのはお互いに癒やしの効果が得られることでしょう。
例えば、大切な何かをなくしてしまったとします。それを一緒に探してくれる周りの人たちがいるかもしれません。探せるところは協力して探しても見つからないとき、諦められるものだったらそうするでしょう。
でも、簡単に諦められないのが大切なものです。自分1人でも探そうと決意して手伝ってくれた人たちにここまでのお礼を言って、自分だけ探し続けることもあるかもしれません。
そんなとき、時間の許す限りでも一緒に探してくれる人もいるでしょう。そして、とうとう探しているものが見つかったときに一緒に感じるものは「喜び」「安堵」など高揚する気持ちなのではないでしょうか。
もしかしたら、その見つかったものに対する心温まるエピソードなどを言ったり、あるいは逆の立場だったら聞くことともあるかもしれません。
思いやりから感じられるのはきっとお互いに通じあえる「癒やし」の感覚なのだと思います。
ほんの1例ですが、お互いにとことん向き合うと出てくるものが思いやりの感情なのでしょう。
3.思いやりとは勇気
お互いにとことん向き合うとはいっても、簡単にできそうでできないのが難しいところです。
「だって」「でも」という言葉が心の内側から聞こえてきそうではありませんか。この言葉はいつも出てくる可能性がありますよね。
「だってもう時間がないし」「でももう探せるところは探したよ」など、今回の例で言うなら最後まで付き合えなかった人の言い分もあると思います。一緒に探した、というだけでも本当は素晴らしいことです。
探せなかった人にもなにかわけがあったことでしょう。それが悪いとも思いません。
確かなこととして言えることは、自分ができる状況にあったときに手伝える勇気を出せるか?という点なのです。
後から、そういえばあのときの人は大丈夫だったかな。と思いを馳せそうだなと感じることがありませんか?時間があったのだから声をかけるだけでもすればよかった。そんな後悔はあまりしたくないものです。
声をかけることは、とても勇気がいることだと思います。実際に行動に移すことですからね。
一緒に探すことも勇気がいることでしょう。助けを求めるのも勇気が必要ですね。最初に書いたお互いの違いをも乗り越えて相手を思いやってみたいと感じることも勇気なのかもしれません。
こう考えてみると、思いやりから始まる行動には勇気も必要なことだなって感じます。
4,おわりに
相手を思いやることは実は自分の内側を見つめるチャンスでした。
相手との違いを恐れず、また喜びをお互いに感じられることで高揚する感覚を感じられることもあり、そして何よりも自分の勇気を試される感覚も覚える。。。
ほんの1つの例からここまでの感情が出て、それを味わうことができるとはなんと面白いことでしょうね。
この面白いという感覚は、もしかしたら自分の内側を観察し続けているからかもしれません。でなかったとしたら、感情に揺さぶられつづけていたかもしれません。
なぜ面白いと感じられるようになったかといえば、ハイゼミで学び続けたことでそうなったとも言えます。もし、あなたが自分自身を観察して行きたいと思えたなら。一緒に学んでいきませんか?