時間を無駄にした、お金を無駄にした、無駄な労力を使った、と後悔することがあります。
無駄なことをした自分を責めるかもしれません。
無駄を省き、効率よく生きることが賢い生き方だと思われています。
なぜ、無駄なことをしてはいけないと思い込んでいるのでしょう。
損得からきているのでしょうか。
考えたら、無駄ってなんでしょう。
こんな例えはどうでしょう。
無駄なことをしたので、無駄なことをするのはやめようということがわかった。
つまり、無駄だと思ったことは無駄ではなかったということです。
禅問答のようですが、人生に無駄なことはなに1つないということです。
無駄は人生を豊かにしてくれます。
無駄は、インスピレーションの源、創造力の泉です。
無駄は無益ではなく、新しいものを生み出す有益な宝庫です。
無駄を有効活用し、人生を彩り豊かに楽しみませんか?
無駄は無駄だと思っていた
無駄なことはなに1つない。
ということを確信するまで、わたしは長い間、無駄は無駄だと思っていました。
生産性があることを良しとし、効率よく合理的な方がいい、無駄はよくないと思っていました。
わたしは二十歳で結婚し、すぐ子どもが生まれ、専業主婦になりました。
家事は、延々と続く繰り返しです。掃除は、汚れる→掃除する→汚れる→掃除する→汚れるの繰り返しです。
人生は、なんでこんなことを繰り返さなければならないんだろう?なんて無駄なんだろう?なんて非効率的だろう?と思っていました。
家事をやっている時間が無駄だ、自分を高める時間に使いたい、といつも思っていました。
お寺では、毎朝境内を掃除します。その映像を観るたびに、なんで毎日掃除しなければならないんだろう?嫌だろうなあ、面倒くさいだろうなあ、と思っていました。
ところが10年以上経ったある日、繰り返し行う家事は「自分磨き」であることに氣がついたんです。
お寺の掃除も同じだということに氣がつきました。自分を成長させ、自分を高める修行でした。
自分を高めることに時間を使いたいと思っていましたが、まさにそれこそが自分を高める時間でした。
繰り返しは飽きます。義務感で嫌々やることもあります。そんな家事をいかに楽しんでやるか?いかに精度をあげていくか?
工夫したり、知恵を働かせたり、日々自分へのチャレンジです。究極の自分磨きかもしれません。
また、繰り返し行うことにはいいことがあります。
繰り返し行うからこそ、自分の変化がわかるということです。1ヵ月前の自分とは違う1年前の自分とは違う、ということがわかります。
人生は繰り返しの中で、成長していくのかもしれません。
無駄なことはなに1つないことを身を持って知る、1つの大きなキッカケになりました。
無駄に秘められている有益なこと
わたしが子どもの頃は、木造の日本家屋が大多数でした。
家の外側には縁側があって、家の中と外の世界をつなぐ場であり、仲立ちしてくれる場でした。
縁側(えんがわ)って知らない人もいるかもしれません。↓この写真が縁側です。今でいうテラスのようなものかな。
縁側という機能、すごいと思います。縁側が生み出すものが確実にあり、人生にプラスに影響していたと思います。
縁側は無駄だとは思わなかったけれど、わたしが伝えたい「無駄なことが人生を豊かにする」ということと同じことが起こっていたと思います。
日本家屋の家の中に話を移します。
家の中は、無駄と思えるような、意味がないと思うようなスペースがありました。子ども心に、機能的でないと感じたんだと思います。
なんでこんな無駄なスペースを造ったんだろう?と疑問を持ちました。もっと合理的な家を造ればいいのにと、真剣に思いました。
世の中は変わり、家は木造から鉄筋になりました。合理的で機能的な、無駄のない家がどんどん造られました。
ある日、無駄のない家と無駄のある家の違いに氣づきました。
なぜこんな無駄なスペースを造るんだろう?という疑問が解けました。
無駄なスペースは実はとてつもない可能性を秘めている場、であることに氣がつきました。
というのは、無駄なスペースだからこそ現実的なこと以外のことを考えられる、ことに氣がつきました。
思考が解放され自由になり、新しい発想やインスピレーション、想像力を引き出すことに氣がついたんです。
無駄なスペースは、決して無駄ではなく、その逆であることに氣がついたんです。
無駄なスペースは、創造の源とつながる場であり、そこから生み出されたものが理想の現実を創ることに氣がついたんです。
無駄は、有益でないからこそ、そこに有益を創り出す力が秘められているということです。
本当の自分を取り戻すキッカケを与えてくれる
合理的で機能的な造りは、その通りに、合理的で機能的な行動が取れます。
人は、合理的で機能的な場に立つと、脳もそのように反応します。
脳は、次から次へ無駄のない指令を出します。それが可能な場だからです。テキパキと機能的に働き、無駄のない行動を取ります。
では、無駄なスペースはどうでしょう。
無駄なスペースでは、脳はどう動いていいかわからず、指令を出せません。なにもすることがなく、ぼおっとしてしまいます。
そういうときわたしたちは、自分ってなんだろう?生きるってどういうことだろう?と考えるものです。
無駄なスペースが、イマジネーションを引き出します。無いから有るが生まれる、という発想です。
仕事のアイデアを考えることもあるでしょう。悩んでいることに向き合うこともあるでしょう。無駄なスペースは自分と対話させてくれます。
無駄なスペースは余白のようです。文字と文字の間の行間かもしれません。次の行動に続くまでの余白、行間。
この行間でなにを想像しようと自由です。制限は一切ありません。
無駄の定義を、このような余白、行間と捉えたらどうでしょう。
無駄なことが次の行動の源になるとしたら?
無駄なことが本当の自分に戻るためにあるものだとしたら?
無駄なことから、自分を見つめようとするし、自分とつながろうとするし、本当の自分になろうとするとしたら?
無駄なことは無駄ではなかった
わたしたちの生きる真の目的は、自分自身とつながることだとしたら?
無駄はその橋渡しをしてくれると考えるとどうでしょう。無駄がないとわたしたちは自分自身に戻れないと考えたらどうでしょう。
もちろん、合理的で機能的な場でも、自分を見つけることや自分自身とつながることはできます。
ただ合理的で機能的な場に立つと、自動的に脳と体が機能的な行動を取り始めてしまいがちです。その環境は、自分とつながる可能性が狭い感じがします。
思考が停止してしまう、無駄な環境の方が、断然自分とつながる幅が広い感じがします。
概ね、わたしたちは、合理的で機能的な場の中にいます。現実ってそうですよね。効率よく進むようになっています。
その効率的な現実から離れたくなり、非現実な旅に出かけたり、ここではないどこかに行きたくなるのかもしれません。
自分自身を取り戻しに行きたくなるのかもしれません。
どうでしょう、無駄の意味が、今までとは違ってきませんか?
無駄が世界を創造する
無駄なスペース、無駄なことから想像したものが世界を創っている、という側面があると思います。
無駄からアイデアが浮かび、この世界の合理的なものを創り出している、という側面もあると思います。
無駄と言われる最たるものは、芸術や文化ではないでしょうか。娯楽もそうでしょう。
大きな災害があったとき、芸術や娯楽は不謹慎だということで、遠慮しなければならない雰囲氣があります。
無駄なこととは言わないまでも、必要のないこと、と捉われがちです。
しかし、その必要でないことが、被災者の方たちを元氣づけるように思えてなりません。
確かに物理的には、食べ物があれば生き延びられるかもしれません。
でも、心に喜びがなかったらどうでしょう?人はそれでも生きたいと思うでしょうか?
人は喜び楽しむために食事をし、健康な肉体を維持するのではないかと思います。
わたしたちが唯一縛られていないもの、それは思考と感情です。想像力です。
これは誰にも縛られません。誰も縛ることができません。例え神様でも縛ることはできません。
その、誰にも縛ることができない思考と感情、想像力が、世界を創っています。
繰り返しますが、無駄から生まれるものが世界を創っている、と言ってもいいのではないでしょうか。
縁側とテラスの無駄
生活の中に縁側があった時代は、縁側って、自分と他人をつなぐ行間のような役目をしていたと思います。
また、縁側で一人ぼおっと座っているときいろんな空想をしたものです。自然に自分と対話していました。縁側はそんな場でした。
その縁側は不要とされ、消えていきました。無駄なスペースを極力なくす時代があったように思います。
ところが最近、無駄と思える広いスペースが確保されている建物が増えています。
広いテラスがあったり、建物のまわりに広いスペースを設けていたり、公園のように誰でも利用できるスペースを設けている建物が増えています。
そのような条例が義務付けられているのかもしれませんが、無駄の有益性に着目し始めたか!と思いたいです。
無駄に思えるような広いスペースで、人はなにを思うでしょう。
建物のまわりの造られている広いスペースを歩くだけで、なんとも心地よく、心がゆったりと豊かになります。
人間らしさを取り戻すかのようです。そういうことがあるだけで、人生は変わってくるように思います。
アイデアがあふれ出てくるような氣さえします。心地よさは、心地いいアイデアを生み出すでしょう。
無駄と思えるスペースが、豊かなインスピレーションを生み出すとしたら?
無駄で無益、お金を生み出さないと思えるスペースが、実はお金を生み出すスペースかもしれません。
あらためて無駄を考える
無駄は無駄ではない、それどころか世界を創造するくらいの有益なものだ。
無駄は、自分自身を知ったり、本当の自分に戻るキッカケを創ってくれる。
ということを書きました。
無駄という今までの概念に、多少でも揺さぶりが起きたと想定して書き進めます。
無駄ってなんだろう?と考えたとき、思ったことがありました。
わたしたちは、自分自身を「無駄」だと思っているのではないか?
「無駄は駄目」なことで、「自分は無駄」⇔「無駄は駄目」⇔「無駄な自分は駄目」という構図に支配されているんじゃないか?
自分は世の中にとって無駄な人間だ、と思っているんじゃないか?
そして、そのことに苦しんでいるのではないか?ということが出てきました。
これにはびっくりしましたが、無視できないものを感じました。
きっぱり言い切りましょう!
無駄なことはなに1つない、無駄な人は誰1人いない、です。
無駄なことの中に次の行動のヒントがある。
無駄なことをしたからこそ自分のやりたいことが分かり行動できる。
無駄はわたしとわたしをつなぐ架け橋。
無駄と思うことには、可能性がいっぱい秘められています。
しあわせになる種です。
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