本氣で生きると未来が変わる!本氣で生きたくなる4つの話

  • 2017年11月6日
  • 2022年11月2日
  • 生き方
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本氣で生きるってどういうこと?

本氣で生きるとは、自分の心の声に従って生きること。

本氣で生きるとは、自分自身に偽りがないこと。

本氣で生きるとは、自分を誤魔化さないこと。

本氣で生きるとは、自己に責任を持つこと。

本氣で生きるとは、自由になること。

本氣で生きるとは、今ここを生きること。

本氣で生きるとは、目の前のことを楽しむこと。

本氣で生きるとは、自分自身を受け入れ肯定すること。

本氣で生きるとは、自分の生き方を常に問うていること。

本氣で生きるとは、本氣なのか?本氣じゃないのか?だけ。

本氣で生きると、後悔しない。

本氣で生きると、しあわせ。

本氣で生きると、人生は拓かれる。

本氣で生きると、奇跡が起きる。

本氣で生きると、自分とつながった最強の生き方ができる。

あなたは、本氣で生きていますか?

本氣で生きることを一緒に考えてみたいと思います。

1.子どもと本氣で向き合う

わたしが初めて「本氣」について真剣に考えたときの体験話を聞いてください。

「美保さんは子どもと本氣で向き合っているのか?」

小学6年生の知的障害の娘を持つわたしに、友人はこの言葉を突きつけました。今から、25年前の話です。

娘は自閉的傾向児で、普通の行動ができませんでした。人の言うことが聞けず、やっては駄目なこと、世間からはみ出すことばかりやっていました。そして始終大きな声を出してうるさかったです。

娘にとってはそれが自然な行動でしたが、世間では通用しません。娘のすべての行動に対し、わたしは、駄目!うるさい!と怒ってばかりでした。

娘はその度抵抗していました。今思うと、自分が受け入れてもらえないから当然です。そのときは、そんなことはわからず、言うことを聞かせるのに、わたしはわたしで必死でした。

自分の思いが通らず怒りがピークに達すると、人を引っ掻いたり、噛み付きました。

そんなことをしたらこの世で生きるのが困難になります。そうならないように、娘の機嫌を損ねないように、常に神経を使っていました。

転ばないように目の前にある小石を拾う、まるで娘の奴隷のように生きていました。娘の影のようでした。

そんなことが数年続いたある日、その様子を見かねた男性の友人に、「美保さんは本氣で子どもと向き合っているのか?」娘とそんな関係でいいのか?と突きつけられました。

奴隷のように娘のために生きているのに、本氣で関わっていないわけないじゃない!とムッとし、反発心が出ました。が、一目置いている友人だったので、そうなんだろうか?と思い、返事ができませんでした。

その友人は、わたしが本音で関わりあっていたグループの中の一人でした。人が大好きで、どんな人でも受け入れて面倒を見る器の大きさがあり、みんなに好かれている親分肌のおじさんでした。

その友人は、娘をなんとかしようと、娘に本氣で関わり始めました。同時に、若者の男子2、3人が立ち上がりました。

娘に言うことを聞かせるのは、男性じゃないと駄目でした。それだけ娘はパワフルでした。でも、娘の父親(わたしの夫)は娘にまったくといっていいほど、関わりませんでした。

そのことはわたしの苦悩でしたが、だからこそ、他人である男性陣が娘に本氣で関わることができました。そんな作用が働きました。人生はおもしろいものです。

それから長い年月、友人が中心となって、友人と若者が娘に本氣で関わり続けました。

娘は、友人に、強く激しく怒られることもありました。そうでもしないと、埒があかないところが、娘にはありました。言うことを聞かないんです。わたしも娘の奴隷になる前は、強く怒っていました。

友人が強く怒ることができたのは、母親であるわたしが、娘が怒られることに文句を言わなかったからでした。

他の障害を持ったお母さんたちは、子どもを怒らせませんでした。わたしは悪いことをしたら普通に怒って欲しいと思っていたので、娘は普段から、みんなから遠慮なく怒られていました。

父親が関わらない、母親が怒ってもいいと思っている、この2つが幸いして、娘に本氣で関わる人たちが出てきたんです。

娘は、強く怒る友人を、どんどん好きになり、懐いていきました。ときに厳しく迫る若者のことも、好きになっていきました。

わたしは、ああこの人たちに任せて大丈夫だ、と安心しました。

娘は、劇的に変化しました。変化は、徐々に起こっていき、4、5年後に、激変していることに氣がつきました。

娘は、最初、オーム返しといって、「なにしてるの?」と聞くと「なにしてるの」としか、しゃべることができませんでした。一方通行の会話しかできなかった娘が、相手と行ったり来たりの会話ができるようになりました。

一方通行の会話が、キャッチボールができる会話に変わりました。この変化は、驚く変化でした。会話だけでなく、娘のすべての行動が、世の中と平行線でした。それが、世の中と交わってきたのです。

娘が心を開いていくのがわかりました。同時に、使える言葉がどんどん増えていきました。最初は、「食べる」という1つの単語の会話でした。それが、「ごはん 食べる」と2つの単語を言えるようになっていきました。

わたしは、数ヶ月経って、娘と本氣で向き合っていなかったことを認めました。友人と若者が道を創ってくれたので、わたしも後から徐々に、本氣で関わることができるようになりました。奴隷返上です。娘を怒れるようにも、なりました。

娘はさらに心が開いていき、どんどん本氣で向き合うことができるようになりました。娘はどんどん変化していきました。

わたしは友人と娘の関わりを見て、人と本氣で関わることのすごさを、身を持って体験しました。

本氣で生きると人生がガラッと変わることを体験しました。

それから、会う人会う人に、人と本氣で関わることのすごさを言うようになりました。

本氣で人と関わること、本氣で生きることが、わたしの人生の指針になりました。

それでも娘は、二十歳過ぎまでは、育てるのが大変でした。楽になったと思えるようになったのは、25歳過ぎくらいだったと思います。

37歳になった今現在、どこでどうなったのか、問題のない、楽な子どもになりました。

娘は障害を持っている子の中でも、横綱級の大変な子と言われていました。あまりにも言うことを聞かなかったので、わがままを許していると思われ、育て方を非難されたこともありました。

ところが今は、よく育てたね、と子育てを褒められるようになりました。評価が逆転したんです。

本氣で関わるという魔法を知って、その魔法を継続して使ってきたから、楽になった今があると思っています。

2.本氣で遊ぶ

友人はわたしが本音で関わりあっていたグループの中の一人、と書きましたが、そのグループでの話です。

老若男女、赤ちゃんから老人まで、100人ぐらいの仲間で、毎夏、5泊6日の合宿をやっています。

みんなで、本氣で遊びます。年齢関係なく、本氣で遊んだもん勝ち、みたいな感じです。大人も、子どものように遊びます。

わたしが毎年唸ってしまうのは、ゲーム大会です。椅子取りゲームをします。男女に別れ、子どもの部と大人の部があります。

男子の大人の部の椅子取りゲームの本氣さは、半端ないです。恐いくらいです。

自分が最後に残ることに、命をかけるぐらいのマジ本氣です。このときは、先輩も後輩もありません。汚い手も使います。潰し合いをします。

その本氣さを文字にできないのが残念なくらい、大の大人が本氣で戦います。男子の闘争本能むき出しです。殺氣立っています。原始的感情、むき出しです。見もの、です。

勝者が決まったときは、大歓声です。みんな笑っています。

大人の女子の部も、みんな本氣です。女子の戦いは、男子とは別の意味で恐いです。女子の戦いの恐さは、男子とは異質です。男子より、ある意味、恐いです。ゾゾっとするものがあります。やはり、感情、丸出し。

本氣を出し合って、勝者が決まったときは、大歓声。

子どもの部の、男子も女子も、やっぱり本氣です。大人が本氣なので、子どもにも受け継がれています。子どもたちは、本氣で戦うことに憧れ、真似をするんですね。

子どもは、負けると、悔しがって泣く子が出てきます。この世の終わりのように、ひくひく、しばらく泣きやまません。慰める子どもたち、慰める大人がいます。まわりで見ていると、微笑ましくて、笑ってしまいます。

子どもの勝者にも、大喝采。

子どもたちは高校生になると、大人の部に参加します。大人の部で勝ってやる、という鼻息が聞こえてきそうな意氣込みが、見ていてかわいいです。いい光景だな、と思います。

戦いは、パーンと上がって散る打ち上げ花火のように、ゲームが終われば終わりです。

みんな、本氣で遊んでいます。毎年、その本氣さ加減には、唸るように感心してしまいます。遊びに手抜きしない。だから、参加する方も見ている方もおもしろい。

ゲームには参加しない人もいます。その人たちが本氣ではない、ということではないです。その人たちは、その人たちの本氣があります。本氣にカタチがあるのではなく、そこに本氣のエネルギーがあるかないか、です。

勝ち負けはよくないというご時世ですが、勝ち負けが悪いんじゃなくて、勝ち負けで人の価値、優劣を決めることが違うんじゃないかなと思います。

本氣で遊ぶので、おもしろさが断然違います。

本氣で遊んでいるのを、毎年目の当たりにして、毎年自分の人生を考えてしまいます。わたし本氣で生きているかな、って。本氣で生きたい、って。

3.モテるのも本氣が関係ある

若い頃に思ったことです。

わたしは、ブスなことがコンプレックスでした。モテないと卑屈になっていました。でも、モテたいと思っていました。ブスでもモテる方法を考えました。

ブスでもモテモテの人がいることを知りました。なんでブスがモテるんだろう?と不思議でした。

ブスでモテる人は、内側から出てくる魅力があるからモテることに氣がつきました。内側から出てくる魅力があれば顔は関係ない、魅力を出すにはどうすればいいんだろう?

ここで、本氣登場です。本氣で自分自身で生きているから魅力的なんだ、だからモテるんだ、と思いました。本氣で生きている人は、生き生きと輝いています。とても魅力的です。光っています。その光が魅力となって異性を引き寄せるんだ、と思いました。

本氣で生きるとモテる。本氣で生きると魅力が出るから。

本氣で生きるしかありません。

4.役者が本氣で演じるということ

役者さんが、映画やドラマで、まるでほんとうの人生であるかのように、そこでほんとうに生きているかのように、真剣に本氣で演じている姿を観る度に思います。

本氣で演じていることが、心底から楽しそうで、しあわせそうで、その体験をしている役者さんを嫉妬するくらい羨ましいと思います。

本氣で演じている姿が伝えてくれることがあります。わたしの生活に影響を与えてくれるものがあります。

本氣で演じていることが楽しい!その楽しがわたしに伝わり、わたしの意識を動かします。

本氣で生きることの喜び、しあわせ、楽しさを触発され、わたしも本氣で生きたい!と思います。

まとめ

本氣で生きるのは本能かもしれません。

ほんとうは、みんな、本氣で生きたいと思っているんじゃないでしょうか。

でもなかなか本氣で生きられない。本氣で生きるのはしんどい思ってしまう。

本氣で生きるには、自分で責任を取らないといけない。責任を取るのが嫌なところがわたしたちにはあるんじゃないでしょうか。

本氣で生きることを回避しても、しんどいことって、結局起きるものです。

本氣で生きてないときは、しんどいことが起こったら、対処療法で切り抜けます。その場しのぎなので、根っこが残ります。

根っこがあるので、また同じしんどいことが起きます。根っこがあるうちは、繰り返されます。

本氣で生きると、同じことが繰り返されることに、疑問を持ちます。

繰り返されていることを変えようと思います。根っこを引き抜きます。根っこがなくなると、繰り返しは起きません。

しんどいことが、1つ解決しました。

本氣で生きると、しんどいことが1つずつ解決されて、しんどいことが減っていきます。

なので大きな目で観ると、本氣で生きる方が楽、と言えるかもしれません。

一番最初に戻って「本氣で生きるってどういうこと?」を、もう一度読んでみてください。

本氣で生きたくなってきませんか?


       

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